国際基準の「子育て」〜社会の迷惑を悪として捉え倫理観を育てる教育〜

「社会への迷惑」を前提に「してはいけないこと」を伝える

社会の中でという前提で本当に「してはいけないこと」を教えるには、前回の話から親の冷静さが必要になってくることがわかりました。
その中で、人や社会に迷惑がかかる結果になるか否かと言う点に絞って対話することで、親が子供へ伝えるべき「してはいけないこと」の数も量も最小限になることは言うまでもありません。最小限にすることで、子供が得られるものというのは計り知れず、まず各自の自由を保つことができるようになります。
人に迷惑がかからない限り「してはいけないこと」というのは無いのだということ。
更にはその思考から善悪の判断の根本が生まれます。日本で「オレオレ詐欺」が横行しだしてかなり経ちますが、一向にその被害が減りません。
これは取り締まる側の問題ではなく、次から次へと大人になってそうしたグループに入ってくるつい最近まで子供だった人たちが、きちんとした善と悪の価値観を育てられていないというのが根本原因だと私は思っています。

アメリカをはじめとして他の国でもこうした詐欺の手口は存在して、時々問題になることがあります。
しかし、日本のように流行りになるほど横行することがないのは、それぞれの家庭で親が、「善悪の判断」を「社会への迷惑」に照らし合わせた視点で考えて子供を育てているからに他ならず、規制がなくてもこうした流行りが生まれないのです。

絶対的倫理観

前回の子供が飴を食べたいという例で、もし子供が飴を食べ続けたいと言った場合はどうか、考えてみましょう。

子供が小さなころは、どう社会に迷惑がかかるのか説明しても理解できる範囲に限界があるでしょう。
しかし、幼稚園生や小学校低学年になれば、甘いものをたくさん食べれば、お腹がいっぱいになってしまったり、太ってしまうことがわかるようになります。しかし、このレベルではまだ「社会への迷惑」と結びついていません。

彼らが大人になっていくにつれて、病気になれば家族に迷惑がかかる。通院などの金銭的負担も多くなる。
そして彼らが親になれば、自分の子供に迷惑がかかり、その子供が困ると社会が迷惑するという構図のはずなのです。
また、お腹がいっぱいでせっかくのご飯が食べられなくなった場合、用意している家族、食材を作ってくれた生産者の皆さんの努力を無駄にすることになります。
幼稚園生や小学校低学年であれば、この程度の内容は理解できますね。
ですから、飴を食べ過ぎないというのは、結果として周りに迷惑をかけないための行動と言えるのです。

数年前、私の住むアメリカ北西部で15代の子供が違法な場所で花火をして、山火事を起こしてしまった裁判の判決が出ました。その判決は、日本円で約40億円を分割払いで支払うというもの。
その山火事で被った政府や消防士の手当てまで1ドル単位で判決文に記述され、はっきりとどういう金銭的・社会的迷惑がかかったのかということが明記されています。
日本ではきっとあり得ないことかもしれませんが、10代であっても社会への迷惑を判断できる年齢である場合、アメリカではこのように責任を明確にします。
「温情はないのか?」という声が聞こえてきそうですが、そこは反省に対しては応える国、アメリカ。
10年後に関係した行政機関がその少年からの支払い状態と、反省状態を見たうえで情状酌量してもよいという裁判官の文章が付随しています。15歳であれば、すでにこの程度の社会的迷惑を理解できるであろうという、裁判官、社会の期待なのです。

社会へ迷惑をかけた場合に「悪」となる「社会への迷惑=善悪」という軸を
親が子育てにおいてブレさせないことで、子供たちが「絶対的な倫理観」を育んでいく手助けになることは間違いありません。

日本の現状

今の日本では信じられない倫理観を失った事故や事件、話を聞くことがあります。
私は、この現象は、絶対的な倫理観を社会として失いつつあるからではないかと分析しています。
その原因は、我々大人の子育てにあったのではないかと思うのです。
子育ての最中に「してはいけない」ということを伝える時に、感情的であったり親が「なぜ」という部分の軸がない、またはブレているという現象が、子供たちの倫理観の構築に影響を与えてしまったと考えています。
また、付け加えれば「私が子供の時は、こうだったから」という自分との比較も軸のブレであることは指摘しておきたいと思います。
このコラムの最初に言ったとおり、子育ての完全マニュアルが存在しないのは、人間は十人十色であり、子供のころの自分と比べてどちらが良いというものではないし、時代が違うと環境が違うので比べものにならないことがあるからです。
その時にとても大切になるのは「子育ての軸」なのです。

子育ての軸

子育ての軸は、可能な限り社会の普遍的なものである必要があります。それは、子供はいずれ社会に出て、社会の中で生きていくからです。

社会の中で生きていくには、法律やルールを守るということ以上にとても大切なことがあります。
それは、人に迷惑をかけないということです。ここでいう迷惑というのは、日本語で言う「迷惑」と少しニュアンスが違うかもしれません。
一般的に世界で迷惑というのは、他人・社会が直接的に不快に思う、または他の行動を阻害する」という観点で使われる言葉です。決して苦しい立場に立った人間が他人の助けを求めたり、他人が手を差し伸べても日本でいう「迷惑」にならないことを親として覚えておいてください。それは支えあいにつながります。

毎週の決まった日に私の息子は、ゴミの回収に来る回収車のために道路の脇に回収用のゴミ箱を出すことになっています。
ある時、ゴミ出しを終えた彼が戻ってきて「まったく迷惑だ」というコメントをしたので、事情を聴くと隣の家のゴミ箱が歩道に倒れていたというのです。
彼はそれを「迷惑」と決めつけていましたが、誰もゴミ箱を倒して出そうと思う人はいないはずで、倒れてしまったというのが正解なのでしょう。
彼と話をして、それが本当に迷惑なのか?自分にも起こり得ることではないのか?という点について理解してもらいました。そして、そこへ戻ってお隣さんのゴミ箱を起こしてきたのです。
迷惑と頼り合い・支え合いの境い目はとても難しいものがありますが、こうした子供のころの体験を親が丁寧に拾い上げて、例をとって教えることこそ善悪の判断を社会の迷惑をベースに教えることになるでしょう。

「絶対的な倫理観」というのは、「社会の中で他の人がしたいことを阻害してしまうか」という観点で教えられることです。
逆に、他の人がしたいこと、公共の利益として皆がしたいことを阻害するような行為を気づかなかったか、またはそこへの考えが及んでいなかったかという点において善悪の判断をできるようになる必要があります。
仮に悪が発生したとしても、その事情とその後どういう社会的な反省を見せるかということも大切で、この点において、昔の日本の親たちは、迷惑をかけたら、奉仕をするという普遍的な価値観を持っていたはずです。アメリカなどでも、学校では迷惑行為の罰は奉仕活動になります。「許す」という気持ちを持つことも大切なのです。

その「許す」というのはどういうことなのか、と言う視点からも、次回は、他人との違い、ユニークとは何かについて考えていきたいと思います。

いつも最後までお付き合いありがとうございます。

鷹松弘章

国際基準の「子育て」

①国際基準の「子育て」〜幸せとは〜

②国際基準の「子育て」〜好きなこと探し〜

③国際基準の「子育て」〜好きなことを探して、見つかったら〜

④国際基準の「子育て」〜「してはいけないこと」とは、どう伝えるか〜

⑤国際基準の「子育て」〜社会の迷惑を悪として捉え倫理観を育てる教育〜

⑥国際基準の「子育て」〜他人と自分が違うこと それは良いこと〜

⑦国際基準の「子育て」〜自分勝手で何が悪い。人は人、自分は自分〜

⑧国際基準の「子育て」〜お金とは何?という教育〜

⑨国際基準の「子育て」〜意味のあるお金の使い方の教育とケチ〜

⑩国際基準の「子育て」〜究極の目標子供の自立。実は親の自律が鍵だった〜

⑪国際基準の「子育て」〜人はなぜ生きるのか、徳の循環を伝える〜

⑫国際基準の「子育て」〜親の幸せを諦めないで。幸せな親にしか幸せな子供は育てられない〜

⑬国際基準の「子育て」〜現実的なこと「同性愛、男子、ひとりっ子」〜

⑭国際基準の「子育て」〜今からでも遅くない、障碍・鬱・年代別の子育て、そして最後に〜

1998年Microsoft Corporation日本支社へ入社。2001年からアメリカ本社にて技術職の主幹マネージャーとしてWindowsなどの製品開発の傍ら、採用・給与・等級などのレイオフまで携わり、米国企業の最前線で勤務。20年の勤務後、現在はデータ解析大手の米国Tableau Softwareシニアマネージャー。同時に東証一部上場のスターティアホールディングス株式会社社外取締役、NOBOARDER Inc. 社外取締役兼 CTO。2019年5月には「世界基準の子育てのルール」という本も出版。

※連載は週1度を予定しております

※内容は変更することがあります

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