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【鷹松 弘章】国際基準の「子育て」〜幸せとは〜

親の学び
公開日:2021年6月17日 更新日:2024年10月15日
【鷹松 弘章】国際基準の「子育て」〜幸せとは〜

子育てで悩んでいる、これから子育てが始まる、子育てがひと段落したママ・パパに是非読んでほしい!元Micorosoft主幹マネージャ、自身も2人の子どもを持つ親でもあり、米国在住の鷹松弘章氏による連載コラムです。
今回は「幸せとは」についてです。

このコラムを読んだ先に・・・

ある時、会社の後輩だった日本人が結婚してもうすぐ赤ん坊を授かるというときに、
「世の中になぜ子供を育てるハウツー本がないのでしょうね?」と私に聞きました。
パッケージ商品やレールの敷かれた人生を歩くことが好きな日本人らしい質問ですよね。
「そんなものあるわけない…」と心の中で考えている自分がいたのですが、いったいそれはなぜなのでしょう。考えてみれば、人間は十人十色。
性別や性格が皆違うのは当たり前で、そうした生まれつき違いの多い人間を育てるハウツー本などないのは当然と言えば当然ですね。
私は海外に住みながら日本人である我が子たちを育て、日本という国を外から見て、日本から来る留学生や日本の大学生と会話し、日本の若者が立ち上げようという会社のお手伝いをし、日本企業の改革に携わってみて、いまの日本が子育てに関して混迷の時代に入ってしまったことに徐々に気付き始めていました。
それは、きっと私たち現代の日本人に特有な、パッケージ化されたもの、すでに決められたことの中から選ぶという習慣から来る迷いなのだということがわかってきたのです。
このコラムを読もうとここへ来た親である皆さんは、ご自分のお子さんにどんな幸せな人生を送って欲しいですか?
イメージしてみてください。具体的にイメージするとなると難しいことですね。
人間の未来というのは、もともと、とても不確定でその不確定さゆえに私たちは不安になるものですよね。
でも、どんな人生を送ってほしくないか?という質問なら具体的にイメージしやすいでしょうか。
例えば、して欲しくないと親が思うのは次のようなことでしょうか。
お金の苦労 友人関係の苦労 就職の苦労 結婚の苦労 病気の苦労

当然のことですが、親は子供の苦労を苦痛にしか感じないので、可能な限り苦労をして欲しくないと願うものかもしれません。
苦労というのは、充実感がなかったり幸福感がなかったり絶望感が沸き上がったりということで起きるものですよね。
大変なことでも充実感や幸福感があれば、苦労とは感じないのが人間の性質なんですね。言い換えてみれば、好きなことをしている時の苦労は、充実感や幸福感が勝ってしまう。
では、この「そうなって欲しくない」という観点から視点を再度変えて、「どうなって欲しいか」ということを考えてみましょう。こんな感じでしょうか。
毎日を幸せに 人生を楽しく謳歌して 責任感を持って 社会の人、周りの人に親しまれる 立派な大人になって欲しい
ここに挙げた内容はとても在り来たりな言葉かもしれませんが、どんな親も子供に望んでいることですよね。
自分の子供には幸せになってほしい。親ならば誰でも思うことでしょう。私もそう思って子供を育ててきました。
しかし、子供達ひとりひとりが違うように、「幸せ」の形は人によって違います。親と子の間でも違うかもしれませんよね。子育てをしている間に「幸せとはなにか?」という疑問や、「社会の中で目立つことで不幸を招いてしまうのではないか」という不安が親の信念を邪魔してしまうことがあります。
こうした不安の中で子育てをしていると、何が正しいのか、何が間違っているのかを見極めることが難しくなって、子育てそのものが自分自身にとっての苦痛になる親も多いのでしょう。
周りのしていることに流されてしまうこともあるかもしれません。
このコラムで私はそんな不安を解消するために、何を信じて子育てをすれば大人になっていく子供たちが幸せになれるのか、をみなさんと一緒に考えたいと思っていますし、少しでも指針になるものが見つかるお手伝いができればと思っています。
このコラムを読んでいただければ、どんな「軸」を持って子育てをすれば良いか、という点についてすこしでも理解していただけるはずです。
今となっては、私が実際に子育てを始めた当初、こんな指針があったらよかったなと思うものばかりです。最初にお断りしておきますが、今の日本に住んでいる皆さんには、「日本で一般的に言われる常識」から離れている、または逆のことを言われている気持ちになるかもしれません。
だからと言って、読むのをやめないでください。なぜなら、実は今みなさんはとても不思議な国(日本)に住んでしまっているからです。
それに本当の意味で子供さんに幸せになって欲しかったら、少しだけ我慢して理解しようと読み進んでくださいね。お願いします。

なぜ「国際基準」なのか?

コラムのタイトルに「国際基準で」という言葉が入っているのを不思議に思った読者の方もいらっしゃると思います。その疑問はきっと、
「なぜ国際基準でなければならないのか?」 「わざわざ国際基準と言うのは何故なのか?」 「日本基準でいいじゃないか、何が悪いのか?」
というようなものでしょう。
私は、世界中から集まったとても多くの人種に囲まれながら毎日の生活と仕事をしています。
その中で日本人と出会った時、幸せそうにしている日本人と出会うことが、とても少なく、どちらかというと自分の培って来た基準と多様な人種の持つ基準のズレに迷ったり、腹を立てたり、困ったりしていることが多くあります。
結局、日本人である私たちは、他の文化を持つ人の行動や言動が気になって仕方ないのですね。自分が「普通」と思っていたことと時にはかけ離れた「普通」と出会うことがあります。
そのたびに、不思議になる感情が湧き上がってくるのです。
自分自身の中では、日本人であるからこそ、実は寛容性や他人の幸せを快く思う気持ちがとても乏しいというのが問題だ、という結論に私は至っています。でも、どうしてそれが我々日本人の心の中に起こってしまうのでしょうか。
国際化という言葉が日本で使われ始めてすでに50年以上の時が経っていてもなお、国際的に活躍する日本人が他国に比べて非常に少ないという事実があります。もしかしたら、私たち日本人が「常識」と思っていたもが国際人でいるためには、「非常識」なのかもしれないという可能性を疑う時期に来ているのかもしれません。
私が日本の外で子供たちと生活して、そして仕事をして様々な人種の人たちと仕事をしたり遊んだり交流することで、ひとつ気になることを見つけました。
それは、日本で言われる「国際化」という言葉には、「国際的に幸福になる」という概念が抜けていて、何か「国際化=英語、国際化=文化の理解」というような表面的なものばかりに偏っているということなのです。
世界に飛び出してくる各国、各文化から来ている人たちは、「幸福」を求めて国外へ出ています。アメリカの建国精神がまさにそういうものでしたが、自国が内戦の真っただ中で、命からがら逃げてくる人。自国が偏った富裕層だけを特別待遇しているところから、自由を求めて出てくる人。法律やルール、社会的な目が無意味に厳しく、もっと自然な幸福を求めて出てくる人。
それぞれです。しかし、大学での講演会の機会などで、日本に住んでいる若い人たちに「国際的に関わりを持って幸せになってみては?」と問いかけても、その返事はほとんどが「今の日本で満足しているので出る理由はない」というような内容です。
しかしその一方で自分の将来や現状には疑問が多いにあり、変えることができるなら変えたいと思っているのも事実のようです。私にしてみれば、外の世界を見たり触れたりしたこともないのに、今の日本が自分を満足させている環境であるとなぜ言い切れるのか、とても不思議に思います。
何かを測るとき、そこには物差しが必要なのですが日本のことしか知らない、体験していない若者が正しい基準になる物差しを持っているのかという疑問もあります。
やがて、そうした若者が大人になり他の国の人たちと交流する機会があったり、旅行したりすると決まって他の国のことで口にするのは「幸せな国ですね、幸せなそうな人ですね、幸せな土地ですね、自由ですね」という言葉ばかりです。
手遅れなんですね、大人になってからでは。これは社会人や主婦の方が外国を訪れても同じようなことを言い残して帰ることが多くあります。
日本の現実に戻りたくないという気持ちが強いようですが、何か矛盾があります。実は、この矛盾こそが戦後日本で育ってきた子供たちが、本当の「幸福」を計るバロメーター(物差し)を失ってしまった証拠なのです。「今回の海外旅行で英気を養ったので、それを大切に持って日本へ帰ります」という言葉を聞くことがよくあります。
何か、鎧を被って内戦中の国、または共産主義の国へ帰るような言い方です。私が若いころのソビエト連邦共和国に住んでいた人たちのようなコメントです。

「幸せ」

みなさんは「幸福追求権」という言葉を聞いたことがありますか?実は、この権利は、多くの近代的な国の憲法に書かれている権利で、アメリカが日本の憲法成立に尽力した時もこの権利をきちんと盛り込んでいます。憲法第13条です。
アメリカは当時の日本人に本来の「幸せ」を持って欲しかったのだと思います。ところが、戦中に人権が無視された時間の長かった日本は、「基本的人権」を率先して学校で教えるようになりました。それはそれで絶対的に必要だった時期もあったのでしょう。
しかし現在の日本の「人権を持って生きる」ことがほぼ保障されてしまっているような子供たちに「基本的人権」を中心に憲法の教育をしたところで、あまり心に響かないでしょう。
そして、「平和憲法」というあだ名を付けて日本社会で声の大きい大人たちは、「平和主義」を唱えるようになりました。でも、ちょっと待ってください。「人権」と「平和」の間で、我々日本人の「幸せ」はどこに行ったのでしょう?幸せを犠牲にして人間が生きる意味、自分を蔑ろにして求めていく基本的人権や平和とは、本当に存在するのでしょうか。
もし親の我々が不幸のどん底にいることがあれば、自分の子供たちを本当の意味で幸せにできますか?幸せでない人間に自分以外の人、家族であろうとも友人であろうとも他の国の人であろうとも、幸せにできる本当の力はないと思うのです。
幸福追求権が記述された憲法第13条には、こう書かれています。
日本国憲法 第十三条(幸福追求権) すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
とても憲法らしい堅苦しい言い回しなので、私なりに簡単な言葉に言い換えてみます。
「日本人ひとりひとりは、個人ひとりひとりが、命や自由を守まれていて、その中で自分自信の幸せを追求する権利を持っています。他人や社会に迷惑をかけない範囲で、自分勝手に幸せを追求して構いません。社会に迷惑がかからない限り、国会や行政も、国民のもつこの権利を最も大切なものとして尊重しましょう」
という感じでしょうか。いかがでしょう。こんなことが日本国憲法の中に、1つの条項として記述されていたことをいままでご存知でしたか? 少し難しい話になりますが、平和条項の第9条にしても基本的人権を含んでいる法の下の平等の第14条にしても、戦後作られた教育制度やメディアによって多くが伝えられています。
しかし、なかなかこの「幸福追求権」は含まれてきませんでした。ですから、私たちがあまり知らないとしても不思議はありません。一方、アメリカなど欧米の国では、この権利を子供たちへ最初に伝えます。それは学校もそうですが、親が学校へ通う年齢になる前に、子供へ伝える意識があるのです。それは、どの親も持つ子供へのおもい「幸せになってほしい」という気持ちからです。
実は、日本が現在の憲法を制定した当初、第二次世界大戦の対戦国だった欧米諸国は、こうした気持ちを持つ日本の文化に変わってほしい、人が幸せになれる国になってほしい、という思いやりがあって敗戦国である日本の国民のために憲法制定に加わったわけです。
それまで日本という国が国民の幸せを中心にしていないように、諸外国の目にも映っていたのでしょう。おそらく、戦争直前から戦中にかけて外から見た日本国民というのは、自分の幸せを我慢させられる非常に辛い生き方をしている国民に見えていたのだと思われます。
ですから、欧米諸国の彼らが親から教わる当たりまえのこと日本の未来の人たちへ憲法を通して伝えたかったわけです。
実は、この幸福追求権というのは、世界に国や政府ができる前から人間が「自然」に保有する権利として定義されていて、生存権、基本的人権、世界人権宣言などの起源になっていると言われています。
ですから、アメリカを含む欧米では親や学校がこの権利をとにかく最初に教える習慣があるのです。
いかがでしょうか?いまご自分のお子さんを育てていて、こうした感覚、そして彼らの幸せに対する尊重という気持ちはありますか?幸せにしたいという気持ちはありますよね、でも尊重したいという気持ちはあるでしょうか。子供は生まれたその日からこの権利を保障されているのです。
もしかしたら、戦後、日本で子供の親になった人たちの大半は、子供のこの権利を大切に育むことよりも、他のことを優先したかもしれません。それは、社会からどう見られるか?自分の子供が「普通」でなかったらどうしようか?などでしょう。
こうした視点で子供を育てればもちろん「日本では」当たり障りなく、平均的に生活する子供が育つかもしれませんが、その「普通」(俗に言う生き方の線路のようなものでしょうか)が違う環境を経験した途端に幸せを見失って不幸になってしまったりするです。結局のところ、
「軸のない親が子育てをすると軸のない子供が育つ]
の世代間の繰り返しになり、社会がどんどん閉塞していくのですね。正に、今の日本のように思いませんか?
人が生きるということは、そんなに簡単なことではありません。人とかかわり、自分自身が食べていけるようにしていくだけでも大変な作業です。家族を支えるというのは責任の大きさから見ても難しいことで、平和に生きることは更に大変です。そう考えると、幸せに生きるというのは至難の業に感じることもあるでしょう。しかし、
「親の育て方ひとつで、子供は幸せになれる」
幸せの基準と幸せになる方法は、親や家族にしか教えられないというのが世界的な常識です。なかなか親以外の人間から子供には伝わりません。
幸せな子供を育てることのできる親になるために、いまからでも遅くはありません。世界基準で子供を幸せにできる親になるために、このコラムを読み進んでみてください。
もし、児童施設で身寄りのない子供をお育ての方がこのコラムを読まれているのであれば、彼らの親代わりとしてこのコラムを読み進んでください。
もしかしたら、このコラムを読み進むうちに、「そんな日本では非常識すぎて難しいこと」という内容に出会うかもしれません。
でも、ご自身の子供の幸せを願うなら、親である皆さんに一度その非常識が実は常識なのかもしれない、と疑う勇気を持ってほしい、そう思っています。
そうすれば、将来どんな困難に遭遇しても、どんな異文化に触れても、自分と考えの違う人に悩まされても、幸せでいることを諦めない強くしなやかな子供が育つでしょう。
次回からは具体的に親として、いったいどんな軸をもって子育てをしたら、幸せな人間になれる育て方ができるのか。その軸を私の提案する7つのルールに例えて考えていきます。 いつもお付き合いありがとうございます。

鷹松弘章

1998年Microsoft Corporation日本支社へ入社。2001年からアメリカ本社にて技術職の主幹マネージャーとしてWindowsなどの製品開発の傍ら、採用・給与・等級などのレイオフまで携わり、米国企業の最前線で勤務。20年の勤務後、現在はデータ解析大手の米国Tableau Softwareシニアマネージャー。同時に東証一部上場のスターティアホールディングス株式会社社外取締役、NOBOARDER Inc. 社外取締役兼 CTO。2019年5月には「世界基準の子育てのルール」という本も出版。



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