国際基準の「子育て」〜障碍・鬱・年代別の子育て〜後編
前回のコラムの続きです....
子供の年代による親の対応の変化の必要性
自立への準備期間(高校〜大学卒業)
この期間には、親にとって別の難しさがあります。
社会に少し出始めるこの時期は、子供たちは親よりもものを知っている、知識がある、何でも自分で出来ると思い始めます。確かにそういう側面はたくさんあると思います。アメリカであれば、既にひとりで車の運転を始める時期とも重なりますので、自立心は相当大きく育ちます。
それと共に、小さい頃とは全く違う感受性を持って敏感なものの感じ方をするようにもなるでしょう。この時期に入った子供達は、心身ともに社会へ出て行く準備を本能的に始めていますし、始めなければいけません。無意識にその準備を始めている子供を、意識的なものへさせるための手伝いをするのが、この期間の親の役目かもしれません。数百年前までの人間社会では、この時期はすでに子育てを終え、母や父になっていた年齢に達していることも、親として意識したほうが良さそうです。
私は、この期間に幼稚なことをしてしまったり、時に出る反抗心を見かけた時、必ず今はすでに親になれる歳であるのに、その行動はもし子供がいたら親として恥ずかしくないのか?と聞くようにしていました 。すでに自信を付け始めたこの時期に、この言葉は相当響くようです。
この時期の子供たちは、物事がわかっているかのような態度をして生きていますが、実際には不安が大きく一番の不安は将来に関してだと思います。その不安を煽るような言葉でしたが、この時期の子供には、再三「18歳になったら(または高校を卒業したら)この家をきちんと出てもらいます」と伝えてきました。これは本当の意味で家を出て行くことは勿論、仮にどこか近くの学校へ進学を決め、家から通うようになったとしても、家族に面倒をかけない、親が子供の世話をするようなことはしない、という意味です。
18歳になって高校を卒業した娘に関しては、家を出てアメリカの別の街で暮らして大好きなバレエに専念することを決断しました。当時15歳の息子は娘の引っ越しの手伝いをしながら、自分が18歳で家を出る時の持ち物まで想像していました。こうして活字で読んでいると、読者の皆さんの中には冷たく追い出すように感じたり、それを実践することがすごいな、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
実際には、そう言った雰囲気ではありません。娘は親の煩さから逃れられ、自由にやれる楽しみで満たされて、少々金銭的な不安や距離の不安があるにしても、そこは応援してくれてサポートしてくれているんだという気持ちを持っていることも感じていますので、親子の絆は全く変わりません。
でも家に残っていれば安全が確認できるという親の安直な考えや、寂しくなるという親の子離れできない心は、断言しますが子供の社会への旅立ちへ害にはなるにせよ、何の利益も生みません。
おそらく読者である親の皆さんは、心の中ではこの論理がわかっているものの、いざその時が来ると難しいと感じられるのでしょう。それが本当は、子育てにおいて、親の出来る最後の責任を全うする感動的な瞬間であることに気付けないのが現代の子育ての難しいところかもしれません。
事実、生きて行くということは、目標の見えない先のわからない海に泳ぎだし、その中でどう心地のいい環境を見つけて行くのかという、厳しくも楽しい旅であるはずで、小鳥が子供を巣立たせるように、その旅の始まりを応援、支えることが出来ないのなら、せっかく何年もかけてエネルギーを費やした子育てが失敗へ向かってしまいます。
また、パートナーのいらっしゃる親の皆さんであれば、こうして子供を巣立たせ、もういちど2度目の恋なり2人の時間に費やして行くことで、子供達が安心して親を案ずることなく彼ら自身の生活を充実させることに集中できることに、是非気づいて欲しいと思います。
もし18歳以降、家にいる必要性、利便性が発生したならば、食費をアルバイトで入れる、必要な費用は可能な限り自分でなんとかする、または借金として親から借りて借用書を作るなど、「自立」の方向へ向かうステップを愛情を持って進めてあげてください。ここは本当に子育ての総仕上げの部分ということを肝に命じましょうね。
社会へ出ても子供は子供、でも「老いては子に従え」を忘れない
こうして子育てが終盤に向かって、働き出す子供、ボランティアに専念する子供、色々と仕事がうまく見つからず、右往左往する子供、いろいろな子供の将来があるでしょう。就職活動という一斉的な動きのないアメリカでは、大学を卒業しても定職をきちんと見つける子供はそれほど多くなく、皆、インターンをしたりバイトをしたり、派遣をしたりして定職のチャンスをうかがう人もいれば、痺れを切らして起業したり友達と何かしらプロジェクトをする子供もいます。
バイトで稼いだお金で学校へ行き直す子供も珍しくありません。今考えると日本では就職活動という存在が、なぜかすぐに定職を見つけなければならないというプレッシャーを子供達へ与えているとわかります。その分、起業をしたり自分で自分を養おうというやる気・エネルギーに満ちた子供達が社会から減ってしまう弊害にもなっているようです。
ですから、仕事や結婚については、親からのプレッシャーを与えることなく自分のペースで無理なく、ここでも応援するという気持ちが大切かもしれません。私は、親としてこの年齢の子供を持つまでにまだ至っていませんが、自分自身の過去を考えても、そして周りにいる社会人、学生の仲間を見ていてもきっと本当に必要な親から子供への一言はこれに尽きると思います。
「私の子供であるあなたが、幸せな顔をして幸せに楽しく生活しているなら、それが一番の親孝行でしょう」
子供の目線から見てもこの言葉を親から伝えられることは、自由と責任を同時に与えられている気持ちになるのではないでしょうか。このコラムの最初から言っている通り、親の冥利というものは、子供が幸せになることですから。逆に言えば、「歳をとった親の面倒を見るのは当たり前だ」とか「家業を継ぐのが当たり前だ」とかいう言葉を少しでも子供にかけてしまうと、親が思っている以上に子供はプレッシャーを強く感じ、幸せになる選択肢にまで目を向けないようになってしまうでしょう。
そうして欲しいのであれば、そういう言葉を最後にかけるのではなく、大人になったら自然にそうしてくれるようになる優しい、思いやりのある子供を育てる方が大切だと思います。
それから子供たちが結婚したり子供を授かるような頃には、恐らく社会の中で必死に生きている頃でしょうし、親と暮らしていた頃とは別の次元で色々と学んでいる最中なのだと思います。
時代は変化していますし、その時その時の彼らを囲っている環境は私たちのその頃とは全く違うはずです。
ですから子供に対する謙虚さを私たち親が忘れず「老いては子に従え」という古い言い伝えがあるように、子供の言っていることに耳を傾けることで一緒にその時代を生きて行くことが出来るのかもしれません。結局のところ、親も子供と一緒に成長し続けることには変わりないのだということですね。しかし、人生の先輩として応援し共に歩んで寄り添って行く、これが子育ての総仕上げになるでしょう。
子育てと学校教育を混同しない
学校での教育と、親の行う子育てというものは、似て非なるもの、実は全く違うものです。現代の日本ではその混同が激しいように映ります。例えば、私も好きだった道徳の授業。本来、哲学的な考え方を教育するために作られた教科ですが、なかなか学校での教育に根付かないという社会的問題があります。それは何故でしょうか。「道徳教育を学校で始めます」とを欧米で発表したと仮定すると、親の間からは「それは親の仕事だ」と反論が出ることが容易に想像がつきます。そんなところまで学校に教えて欲しくないというのが本音なのでしょう。
実際、ヨーロッパでは、高校時代までに「哲学」の授業はしますが、日本で言う道徳というのはあまり存在しません。アメリカでも高校で、という世論が強いものの、大学では基礎課程で「哲学」がほとんど必修になっています。ですから道徳心は家庭で、哲学的な考えの方法論は学校でという住み分けになっているということです。
話が逸れましたが子育てと教育は何が似ていて、何が違うのでしょうか。
実はどちらも「社会へ出て行くための訓練」という面は共通していると思います。
しかし、どちらも訓練とは言っても「何のために」という目的が違っているのです。例えば、学校教育の訓練は、算数の問題を繰り返し解く訓練から、高学年になると自分の意見をどう周りに伝え発表するかという方法の練習を繰り返す性質が強くなります。
これが学校教育の目標である「社会活動に必要なスキルをつける」ということだと思います。
一方、家庭での子育ては何をするためにあるのでしょうか。
それは「社会活動に必要な倫理観をつける」という言葉に尽きるでしょう。ですからこのコラムで繰り返したように子供が好きなことを見つける手伝いを親がしても、実際にその好きなことの実力をつけることは子供自身が探し当てなければいけませんし、習い事などの場を通じて身につけて行きます。しかし、周りの人への思いやりや、どういう目的で商品を買うのか・作るのかなどの倫理的な部分、その部分のくり返しの練習を家庭で行う環境を作り、応援するのが子育てなのかもしれません。
こうしてみると、学校にさえ行けば子供が育つ、学校の先生やカリキュラムがしっかりしていれば立派な大人になると親が思うのはあまりにも無責任で勝手な論理です。学校の先生も私たちと同じように人間であり、人間である以上、失敗もすれば未熟な部分もあります。
親と先生という関係の中に信頼関係を築くためには、お互いの役割とそれぞれの場所で子供達に教える目的が違うことを認識し、そしてその違いの中で責任を分担することを共有できれば、きっと学校教育の場と親の気持ちがうまく噛み合う社会が来るでしょう。学校はあくまでも子育てに付随する追加の場であって、家庭が中心になる子育ては無くてはならないものです。こういう環境で子供が育つと、いずれ家庭に中心を置き、そして大切にして、加えて社会で倫理観を持って活躍できる大人になってくれると私は信じています。
次回は、このシリーズの締めくくり、終わりのまとめを書きたいと思っています。いつも最後までお付き合いいただきありがとうございます。
鷹松弘章
国際基準の「子育て」
①国際基準の「子育て」〜幸せとは〜
②国際基準の「子育て」〜好きなこと探し〜
③国際基準の「子育て」〜好きなことを探して、見つかったら〜
④国際基準の「子育て」〜「してはいけないこと」とは、どう伝えるか〜
⑤国際基準の「子育て」〜社会の迷惑を悪として捉え倫理観を育てる教育〜
⑥国際基準の「子育て」〜他人と自分が違うこと、それは良いこと〜
⑦国際基準の「子育て」〜自分勝手で何が悪い。人は人、自分は自分〜
⑧国際基準の「子育て」〜お金とは何?という教育〜
⑨国際基準の「子育て」〜意味のあるお金の使い方の教育とケチ〜
⑩国際基準の「子育て」〜究極の目標子供の自立。実は親の自律が鍵だった〜
⑪国際基準の「子育て」〜人はなぜ生きるのか、徳の循環を伝える〜
⑫国際基準の「子育て」〜親の幸せを諦めないで。幸せな親にしか幸せな子供は育てられない〜
⑬国際基準の「子育て」〜現実的なこと「同性愛、男子、ひとりっ子」〜
⑭国際基準の「子育て」〜今からでも遅くない、障碍・鬱・年代別の子育て〜前編
⑮国際基準の「子育て」〜今からでも遅くない、障碍・鬱・年代別の子育て〜後編
⑯国際基準の「子育て」〜最後に。娘の子育てをひと段落させて思うこと〜
1998年Microsoft Corporation日本支社へ入社。2001年からアメリカ本社にて技術職の主幹マネージャーとしてWindowsなどの製品開発の傍ら、採用・給与・等級などのレイオフまで携わり、米国企業の最前線で勤務。20年の勤務後、現在はデータ解析大手の米国Tableau Softwareシニアマネージャー。同時に東証一部上場のスターティアホールディングス株式会社社外取締役、NOBOARDER Inc. 社外取締役兼 CTO。2019年5月には「世界基準の子育てのルール」という本も出版。
※連載は週1度を予定しております
※内容は変更することがあります